2021年12月24日公開
ライオンズというチームが一枚岩として本当によく纏まっていると筆者が感じたのは、実は2008年が最後なのだ。そしてその前は1997〜1998年まで遡る。もちろんこれは筆者の主観でしかないわけだが、この時期のライオンズは観ていて本当に好きだった。
2008年の話はまた別の機会に振り返るとして、今回は1997〜1998年のことを少しだけ振り返りたい。いわゆる怪物松坂大輔投手が入団する直前の2年間だ。
東尾修監督率いるこの頃のライオンズは、チームが本当に上手く纏まっていた。打線は「松井・大友・高木大成」という看板トリオに加え、クリーンナップは鈴木健選手とマルちゃんことドミンゴ・マルチネス選手が務めていた。98年は腰痛に苦しめられたが、まだ佐々木誠選手もライオンズの主力だった。
一方投手陣は西口文也投手を中心に、豊田清投手、石井貴投手、潮崎哲也投手、西崎幸広投手、森慎二投手、デニー投手ら錚々たる顔ぶれで、投打共に若手とベテランのバランスがよく整っていた。
この頃のライオンズ先発陣は、気概を持って投げられる投手ばかりだった。豊田投手と石井投手は見たままであるが、西口投手もかなり気持ちが強く、闘志を秘めたピッチャーだった。
その西口文也投手が今ではライオンズの2軍監督を務めているわけだが、将来はきっと素晴らしい監督になっていくのだと思う。今回はその根拠を筆者なりに書き進めていきたい。
西口2軍艦にとって大きな存在だった監督は、東尾修監督と渡辺久信監督だ。東尾監督は言うまでもなく、西口投手のライオンズ入りと同時に監督になられた言わば恩師で、和歌山出身という共通点を持っている。
東尾監督は「西口は1年目は下(2軍)でじっくりと投げさせる」と語り、その通り95年は優勝が遠のく終盤まで1軍に上げることはしなかった。だが優勝が遠のいたこの終盤で、ルーキー西口投手は完封勝利を挙げている。
西口投手の高速スライダーに惚れ込み、東尾監督は翌年以降、西口投手を1軍でエースとして育て上げることにした。そしてルーキーイヤーを終えたオフ、東尾監督は「来年10勝したら100万円、その後は1勝ごとに10万円」という監督賞を西口投手に約束した。その結果96年は西口投手はリーグ2位となる16勝を挙げた。
実は森祇晶監督は「活躍したら外車をプレゼントする」と選手に約束しながらも、実際にその約束を守ったことはなかった。そのため徐々に選手たちの心が監督から離れて行ったとも言われている。だが東尾監督はきっちり160万円を西口投手に監督賞としてプレゼントした。
これにより「この監督は選手との約束を絶対に守ってくれる」と選手たちが感じるようになり、黄金時代の選手たちがほとんどいなくなってしまったライオンズを率いて、東尾監督は僅か2年でライオンズの立て直しに成功した。1997〜1998年は日本一にこそなれなかったが、この時のライオンズは筆者にとって本当に魅力的なチームだった。
そういうチームに見えたのも、やはり東尾監督が選手や他のコーチを信頼し、そして自らが口にしたことには100%責任を持つという姿勢が選手たちの心に自然と火をつけていたからだと思う。
1997年の終盤、首位だったライオンズはオリックスから猛追を受けていた。そして9月中旬、グリーンスタジアム神戸でオリックスとの直接対決を迎えるのだが、3戦目は台風の影響で中止になる可能性が高かった。
そこで東尾監督は、この年15勝を挙げて最多勝に輝いている西口投手を監督室に呼び、「ここからはリードしている試合の終盤はすべてお前に任せる」とワインを飲みながら告げた。これを西口投手は意気に感じ、スクランブル態勢でブルペンに待機することになった。
この3連戦は4.5ゲーム差で迎えており、東尾監督としては3連敗さえしなければそれで良い、と考えていた。しかし初戦は負けてしまい、西口投手が先発予定だった3戦目は台風で中止の可能性が高かったため、東尾監督は3.5差となってしまった2戦目を死ぬ気で取りに行く覚悟を決め、エースをブルペンに待機させるという戦術を敷いた。
この戦術が上手くはまり、西口投手の好リリーフもあり、2戦目に勝利し再び差を4.5ゲームと広げた。そして迎えた3戦目だったが、台風で中止の予想は外れ、試合は予定通り行われた。だが1勝1敗となったライオンズは肩の荷がおり、西口投手も再びリリーフ登板で4イニングスを投げ、オリックスとの差を5.5ゲーム差に広げた。
この時のオリックス3連戦こそが、西口文也投手がライオンズの真のエースになった瞬間だった。前年は監督賞により主力投手としての自覚を持ち、97年はリーグ優勝を果たすためにスクランブル態勢に挑んだことで名実ともにエースピッチャーとなった。
チーム内の一番良いピッチャーとして、リードしたすべての試合をロングリリーフで締め括る。東尾監督のこの采配をして、チームメイトたちも西口投手こそが新時代のエースなのだと認めるようになった。
ちなみにライオンズのチーム内では、松坂大輔投手が入団から3年連続で最多勝を獲得しても、「エースは西口、松坂は怪物」というふうに言われていて、松坂投手入団後もなおチーム内でのエースの称号は西口文也投手の元に在り続けた。
西口文也投手はエースとしての資質を持ちながら、さらにエースを育てられる名将と巡り会うという幸運にも恵まれた。そして西口投手は東尾監督がいかにして投手陣の再生に成功したのかを目の当たりにしている。つまり西口投手自身、エースの育て方を東尾監督から学んでいるということなのだ。
将来、いつか西口文也2軍監督が1軍の指揮を執る日もやってくるのだと思う。その時西口監督は、きっと若き日の自身のようなエースピッチャーを上手く育てて見せてくれるはずだ。
ライオンズには西口投手、松坂投手、そして涌井秀章投手以降、絶対的エースの存在がない。だが来季以降、西口2軍監督が将来の絶対的エースを2軍でしっかりと育て上げてくれるはずだ。
さて、最後に補足となるがアマチュア時代の西口文也投手は渡辺久信投手に憧れていた。その渡辺投手と3年間共にプレーし、そして2008年には力はかなり衰えを見せていたものの、それでもベテランとして渡辺久信監督率いるチームのリーグ優勝と日本一に貢献してくれた。特にレギュラーシーズンの後半は4勝1敗で、防御率は2.74と素晴らしいピッチングを見せてくれた。
アマチュア時代に憧れた監督の下、全盛期ほどではないものの優勝に貢献することができて、美酒の味も一入だったのではないだろうか。
東尾監督も、渡辺監督も、エースを育てたり、調子を落とした先発ピッチャーを蘇らせる起用法に長けていた。そんな投手出身の名将の系譜を辿り、西口文也2軍監督にはいつか1軍を率い、日本一の夢をファンに見させてくれるはずだと筆者は確信しているのである。