2021年12月26日公開
埼玉西武ライオンズの次期監督の最有力候補は松井稼頭央新ヘッドコーチだと言われている。そして松井ヘッドコーチが将来監督に就任した際、ヘッドコーチを務めるのが平石洋介打撃コーチだとも言われている。
松井稼頭央選手と言えば、メジャー移籍前のライオンズ時代は球界最強スイッチヒッターと呼ばれていた。だがこの松井選手、最初からスイッチヒッターだったわけでも、最初から遊撃手だったわけでもない。
PL学園時代の松井選手はピッチャーで、ドラフトでは投手として指名されるのか、野手として指名されるのかと野球ファンをヤキモキさせた。結果的にドラフト前に野手として指名すると宣言したのは巨人とダイエーで、実際に3位指名で交渉権を得たライオンズも野手として指名している。
さて、この松井稼頭央選手だがライオンズ入団と同時に内野手にコンバートし、30歳となり力が衰え始めていた田邊徳雄選手の後任遊撃手として徹底的に鍛え上げられて行った。ちょうど松井稼頭央選手の後任として中島裕之選手が鍛え上げられていたように。
プロ1年目の1994年は1軍に昇格することなく、とにかく2軍で徹底的に鍛えられた。だがプロ入り後に本格的に取り組み始めたショートとしては24失策も記録している。ここから始まりゴールデングラブ賞を4回受賞するまでに至っているのだから、松井選手がどれほど努力をしたのかなど我々は想像することさえできない。
「2軍に体が強くて足が速いのがいる」と聞き、1995年の開幕直後、東尾修監督はイースタンの試合を視察しに行った。松井選手自身、実は左打ちに関しては1年から少しずつ始めていたのだが、この時はまだスイッチヒッターと言えるほどではなかった。
2軍でも思うようにヒットを打てない練習中の松井選手を見て、東尾監督は「どうせ打てないなら試しに左で打ってみろ!」とバックネット裏から監督自ら野次将軍のように指示を飛ばした。
すると1年目から少しずつ左打ちを始めていたこともあり、スイッチヒッターとしてある程度形になっていると判断した東尾監督は、松井稼頭央選手を「スイッチヒッターとして」1軍に上げる決意をした。
黄金時代の主力選手たちがほとんどいなくなっていた状況下で、ライオンズは新たなスター選手を育てていかなければならず、ルックスも良かった松井選手はこの1軍昇格をきっかけに、まさにその筆頭候補となっていく。
なおかつ松井選手のプレースタイルは東尾監督のヴィジョンにもマッチしていた。「ここぞという時に勝てる投手の育成と、機動力野球」-、これが東尾監督のチーム作りのヴィジョンだったわけだが、この申し子が西口文也投手と松井稼頭央選手だった。
95年は2軍で17試合に出たあと1軍に昇格すると、69試合に出場した。しかし打率は.221と低く、打てない松井選手を使い続けることで清原和博選手があからさまに不満を漏らすほどだった。だが使い続ければモノになると確信していた東尾監督は、打てなくても松井選手を我慢して使い続けた。
その結果3年目1996年の打率は.283まで上昇し、盗塁数はなんと50個を数えた。この好成績には清原選手も口を閉ざすしかなかった。
4年目の開幕直前、東尾監督は3年目の活躍のご褒美として松井選手を京都の祇園に連れて行き、芸者遊びを経験させている。そして「4年目に3割60盗塁をクリアしたらもう一度連れてきてやる」と約束をした。そしてシーズンが開幕し、96年に松井選手が残した成績は打率.309で、盗塁数は62個だった。
プロ1年はスライディングすら上手くできなかった松井選手が、その3年後には盗塁王にまでなっていたのだから、東尾監督の慧眼を改めて見直さなければならない。
1年目94年の失策数が24個だったことを考えると、もし95年以降も森祇晶監督が続投していたとしたら、95年以降に松井選手にチャンスが訪れることはなかったかもしれない。これだけエラーをする選手を、森監督が1軍に上げたとは思えないからだ。
だがこの松井選手の24失策というのは、決して守備が下手くそで記録したものではない。もちろん野手転向はプロ入り後だったため、決して上手かったと言うこともできないわけだが、しかしこの24失策というのは、他の選手では追い付けないような打球にも追い付けてしまうからのものだった。
失策はもちろん、ボールがグラブに触れたことで記録される。松井選手の場合は尋常ではない守備範囲の広さで、普通ならばまったく追い付けないような打球にもグラブが届いてしまうのだ。しかし届いたは良いが捕球まで至らなかったものが失策として記録されていった。これは1軍で活躍するようになってからも同じだ。
エラー数を見て「松井稼頭央選手は名手ではない」と言う者もいるが、筆者はそうではなかったことをここで明確にしておきたい。もちろん奈良原浩選手のような巧みさには乏しかったものの、しかしカル・リプケンJr.選手やデレク・ジーター選手のような攻撃的遊撃手としては間違いなく名手と呼べるショートストッパーだった。
今まで「松井稼頭央二世」と称された若手選手たちは何人かいた。だが実際松井稼頭央選手のようなタフな選手になれた者は誰一人いない。中島裕之選手にしても後継者ではあったが、二世ではなかった。
もう松井稼頭央選手のような選手は出て来ないのだろうか。それとも松井稼頭央監督が誕生した時、監督自身がその誕生を演出するのだろうか。まだまだ先のことではあるが、将来の松井稼頭央監督が育てた松井稼頭央二世を見てみたいと思うのは、きっと筆者だけではないはずだ。