2022年10月24日公開
今季まで監督を務めた辻発彦監督は、本当に良い人という言葉がよく似合う監督だった。例えばかつてヤクルトスワローズを率いた関根潤三監督は、見た目は本当に優しそうなのだが、実際は激情型というギャップの大きな監督だった。だが辻監督は見た目も優しく、そして実際にも優しい方だった。このような方は1軍監督よりも、もしかしたらファームで好々爺として指導に当たった方がその人柄を生かせるのかも知れない。
その辻監督の後任を務めるのは、既定路線通り松井稼頭央新監督だ。これはあくまでも筆者個人の印象なのだが、辻監督はあまり明確なヴィジョンを示さない監督だったように思う。渡辺久信監督はNo Limit打線を組みながらも「ディフェンスを中心にした野球を目指す」というヴィジョンを常々口にしていた。だが辻監督からはこのような明確なヴィジョンが示されたことは少なかったように思う。
もちろん辻監督としてもセンターラインを中心にし、ディフェンスで勝てる野球を目指していたとは思うのだが、しかし実際には山賊打線という言葉ばかりが独り歩きしてしまい、辻監督が本当にやりたかった野球は6年間でできなかったように筆者の目には映っていた。
渡辺久信GMも時々、山賊打線という言葉を払拭するためのコメントを出したりもしていたが、しかしメディアやファンの間では山賊打線という言葉がどんどん独り歩きしていってしまい、チーム全体もその言葉に引っ張られるようにオフェンス中心の野球をすることが辻政権の最初の5年間だった。
だが松井稼頭央監督は就任と同時に、山賊打線をフィーチャーするような言葉は一切使わず、足を絡めたスピード野球を目指すというヴィジョンを明確に示して来た。この宣言は監督として本当に良いやり方だったと思う。ここで最初に宣言しておけば、メディア側も「来年は今までとは違った野球が見られそうだ」という印象を受け、山賊打線という言葉から少し遠ざかってくれるようになるだろう。
渡辺久信GMが山賊打線という言葉からチームを卒業させたがっていたということは、辻監督だってそうだったはずだ。だが辻監督はそのヴィジョンを自ら明確な形で示すことがほとんどなかったため、チームは山賊打線というインパクトのある言葉に流されていってしまった。その結果辻監督が本当にやりたかった野球ができなかったのではないかと、筆者は想像していた。
しかし明確な形でヴィジョンを示した松井稼頭央監督のやり方は上述の通り良かったと思う。このやり方は早速効果を生み出しており、スピード野球に対応するために鈴木将平選手は体重を5kg落とすことをこのオフの目標に掲げている。鈴木選手は今季はウェイトアップによる打撃向上を目指したわけだがそれは結局上手くいかず、打率を上げられなかっただけではなく、持ち味だったスピードも失ってしまった。
だが松井稼頭央監督が最初に明確にヴィジョンを示したことにより、秋季練習の段階でもうすでに選手たちが松井監督が向かせたい方向を向き始めている。これはキャプテン経験のある監督特有のやり方だと言えるだろう。現役時代にキャプテンシーがあった監督は、選手たちに対し方向性を示すのが非常に上手い。そのため選手たちも迷いなく向かうべき方向を知ることができる。
松井稼頭央選手は、東尾修監督の元で花開いた選手だった。そしてその東尾監督は、まさに明確なヴィジョンを示して巧みに選手を牽引した名将だ。90年代後半のライオンズをご存知のファンであれば、Hit!Foot!Get!というスローガンを覚えていると思う。これはまさに明確なヴィジョンだった。
ヒットで出塁したら足で塁上を引っ掻き回し、相手の隙をついて得点していく。これがHit!Foot!Get!の意味だった。東尾監督が目指したのはとにかく相手バッテリーが嫌がる野球だったわけだが、それがすべて込められていたのがこのスローガンだった。そしてこのように明確なヴィジョンを示してもらえると、選手たちも非常にやりやすくなる。
当時のライオンズの主砲は鈴木健選手とマルちゃんことドミンゴ・マルティネス選手だった。マルティネス選手には長打力があったが、鈴木健選手はホームランを打つというよりは、繋ぐ四番打者として多くの打点を挙げていった。
1番松井稼頭央選手が出塁すればすぐさま盗塁し、2番大友進選手が進塁打を打ち、そして3番高木大成選手で得点を挙げていく。3番までで得点できてしまうため、鈴木選手もそれほど気負うことなく打席に立つことができ、ホームラン数は少ないながらも非常に多くの打点を稼いでいった。
松井稼頭央監督の頭の中には、この時の野球が染み込んでいるはずだ。長打力はなくても得点力が高いチーム、これこそが松井稼頭央監督が目指している野球なのだ。
そして東尾野球ということであれば、豊田清投手コーチ、西口文也2軍監督、小関竜也2軍コーチらはまさに東尾チルドレンであり、松井稼頭央監督のヴィジョンを100%理解できるコーチたちだ。そういう意味では2023年の組閣は本当に良い形に収まって来たように見える。
ヘッドコーチとなる平石洋介コーチに関しても全面的に松井稼頭央監督のヴィジョンを尊重していってくれそうなため、東尾野球とは無関係だったコーチではあるが心配はいらないだろう。そこはPL学園の絆で何事も上手くいく気がする。
辻監督はもっと心を鬼にしてでも、明確なヴィジョンを示し続けるべきだったと思う。しかしあまりそういうことをしなかったため、選手たちが個に走るケースが非常に多かった。「自分が活躍すればチームは勝てる」という趣旨のコメントを口にする選手も少なくなかった。だが野球というスポーツはそうではない。4番打者を9人集めても、エース格をブルペンに揃えられても勝てるチームを作れるとは限らない。
逆に一流選手がほとんどいなかったとしても、二流選手の個性を上手くつなぎ合わせて超二流に仕立て上げ、万年弱小球団を優勝に導いた監督がいた。筆者が最も尊敬している野球人である三原脩監督だ。三原監督は勝ち方も、勝たせ方もよく知っている監督だった。ちなみにその三原脩監督の弟子とも呼べる監督だったのが、故仰木彬監督だった。
球団が西武となり、根本陸夫監督の後任を務めた広岡達朗監督は、徹底した管理野球で西武ライオンズを初の優勝に導き、黄金時代を切り開いていった。この管理野球に反発する選手もいたわけだが、しかし結果を出したことによりその反発を押し退けた。
そして森祇晶監督はとにかくミスを減らし、緻密な野球を目指していた。そしてそのヴィジョンもしっかりと選手たちに伝わっており、グラウンドで気を抜く選手はいなかった。逆に日本シリーズで気を抜いたクロマティ選手が見せた緩慢なプレーの隙を突いたのが辻発彦選手の伝説の走塁だった。
黄金時代も終焉を迎えて森監督の後任を務めたのが東尾修監督だった。東尾監督も上述したようにしっかりとヴィジョンを示した監督だ。しかし東尾監督に続いた伊原春樹監督は「自分は伊東勤監督誕生までの繋ぎ役」というスタンスを先行させてしまい、東尾監督が築いた礎によりリーグ優勝を果たすことはできたが、伊原監督と対立してライオンズを去った選手もいたほどだった。
ライオンズの黄金時代、もしくは毎年のように優勝争いに絡んでいた頃というのは、とにかく各監督が明確なヴィジョンを示していたのだ。それにより選手全員が同じ方向を向いて野球をすることができていた。だからこそBクラスに転落することがなかったのだ。
松井稼頭央新監督は、東尾監督が如何にしてチーム全体に同じ方向に向かせたのかをまさに間近で見て来た監督だ。もちろん東尾監督ほど喋るのが得意な監督ではないわけだが、それでも就任したのと同時に選手にもしっかりと伝わる形でハッキリとヴィジョンを示したのは本当に良かったと思う。
ファンとしてはもちろん打ちまくる山賊打線をもっと見たかったと思うのだが、しかし山賊打線では勝てないということは辻監督の6年間ですでに証明されている。それに早くから気付いていたからこそ渡辺久信GMも脱山賊打線を目指していた。
いずれにせよ松井稼頭央新監督の船出は上々だと思う。これだけヴィジョンを明確に示せていれば、松井稼頭央監督が目指す野球に対応できなければ誰であろうとレギュラーにはなれないというメッセージはしっかりと伝わっていく。そしてもう実際にそこに対応しようとし始めている鈴木選手のような存在もある。
今後鈴木選手のように、松井稼頭央監督が向かせたい方向を向いて野球に取り組む選手が増えてくれば、来季のライオンズはかなり安定した戦いができるのではないだろうか。少なくともBクラス落ちを心配するようなチームにはならないはずだ。
しかし優勝ということになってくると、せめて絶対的エースと真の四番打者のどちらかでも作っていかなければならない。それが誰になるのかはまだ分からないし、外国人選手に期待していく可能性だってあるだろう。だが投打どちらか一人でも作ることができれば、優勝という文字がグッと近づいてくるはずだ。
おそらく来季は、山賊打線という言葉が使われることはほとんどなくなるだろう。逆にもし山賊打線という言葉がまだ独り歩きしているようであれば、松井稼頭央監督のチーム作りは上手くいかなかったということになる。だがもちろんそうはなって欲しくはない。来季のライオンズ打線は今季までとは異なり、少ないヒットで例え長打がなくても得点を挙げていけるようになって欲しい。それこそが松井稼頭央新監督が示したヴィジョンなのだから。