2021年12月 6日公開
1999年5月16日、筆者も西武ドームの一塁側スタンドにいた。もう22年も前の話だ。その日は西武ドームから溢れんばかりの観客が集結し、外周通路も立ち見客で文字通り溢れ返っていた。日本シリーズを何度も観戦しに行ったことはあったが、この5月16日ほどの満員御礼を、筆者は未だ経験したことがない。
西武ライオンズvsオリックスブルーウェーブ-。松坂大輔投手とイチロー選手が始めて対峙した瞬間だった。
結果は誰もがご存知のように3打席連続三振で、4打席目は四球というものだった。あのイチロー選手が高卒ルーキー相手に3打席連続三振を喫するなど、一体誰が予想しただろうか。
この日西武ドームで味わった興奮は、筆者はきっと一生忘れないだろう。この日西武ドームには一体どれくらいの観客がいたのだろう。4万人だろうか、それとも5万人だろうか。この場に居合わせた5万人のファンは筆者も含め、本当に果報者だったと思う。
もしかしたら筆者はもう二度と、これほどの興奮を野球場で味わうことはできないかもしれない。この試合はそれほどまでに筆者の中では強烈な印象として今も色鮮やかに残り続けている。
あの日グラウンドで対峙したふたりは、今は共にユニフォームを脱いでしまった。
だがその脱ぎ方は本当に対照的で、イチロー選手は「試合に出続ければまだメジャーで.270打てる」と、アメリカの辛口メディアに言わせながらユニフォームを脱ぎ、松坂投手はボロボロになり、もう投げられない状態まで野球を続けてからユニフォームを脱いだ。
ふたりとも、生き様が本当に格好良かった。
松坂投手とイチロー選手は敵として出会い良きライバルとなり、そして数年後はジャパンのユニフォームでチームメイトとなり、そして海を渡りメジャーリーグを舞台に鎬を削り合った。
こうなってくると筆者の中で膨らんでくる夢は、18番と51番をそれぞれ背負い、ライオンズとオリックスの監督としていつかパ・リーグを盛り上げてくれるふたりの姿だ。
あの日イチロー選手が3三振することを誰も予想できなかったように、2021年のファン感謝デーの日、誰がイチロー選手がメットライフドームに姿を現すことを予想しただろうか。
まるでLビジョンから飛び出して来たかのようにイチロー選手が突然姿を現すと、メットライフドームにはまるで悲鳴のような歓声が木霊した。
このふたりの間に多くの言葉は要らない。誰がも一瞬でそう理解できるほどに、イチロー選手は颯爽と登場し、また颯爽と去って行った。
だからこそ筆者も、ふたりについてはもうこれ以上ここでは語るまい。
東尾修監督はきっと登場するだろうと思っていた。だがそれでも実際に姿を見ると嬉しくなってしまう。あのようにマフラーを巻いて登場してくる姿は、監督時代と何ら変わりない。
東尾監督が語ったように、松坂投手は200勝のボールを東尾監督に返すことができなかった。約束を果たすことができなかった。
すると東尾監督は「必ずライオンズのユニフォームを着て戻って来い」と、松坂投手に新たな約束を迫った。松坂投手は大人のかわし方を見せたが、しかしファンの思いも東尾監督と同じだ。
何年後になるのかは分からない。だがいつか、松坂投手はライオンズの監督にならなければいけない人だ。そして東尾監督が監督としては果たせなかった日本一を果たし、そのウィニングボールを東尾監督のもとに届けて欲しい。
1999年、球団の意向を押し切ってまで松坂投手を東京ドームのファイターズ戦でデビューさせたのは東尾監督の親心だった。いきなり本拠地デビューさせるよりも、敵地でデビューさせた方がプレッシャーも小さくて済むという東尾監督の考えだった。
東尾監督は、このデビュー戦で片岡選手から三振を奪った1球こそが、松坂大輔投手の野球人生で一番良いボールだった語った。確かに、本当に伸び上がっていくような凄まじいボールだった。つまり、東尾監督の親心に間違いはなかったということだ。4月7日、松坂投手はプロ初登板初勝利を挙げた。
松坂投手のプロ人生の後半は、まさに怪我との戦いだった。海の向こうから戻って来たあとも、ホークスで3年、ドラゴンズで2年、思うように投げることはできなかった。
それでも渡辺久信GMは2019年のオフにドラゴンズを退団した松坂投手がライオンズの戦力になると考え、2006年以来のライオンズのユニフォームに袖を通すことになった。
背番号は2年間16番を背負ったが、しかし最後の最後で18番が空き番号になると、2021年のシーズンも終わりを告げる頃、松坂投手の背番号が16番から18番に変更されることが発表された。
松坂投手のプロ野球人生はライオンズの背番号18のユニフォームで始まり、そしてまたライオンズの背番号18のユニフォームで閉じられた。
最後のライオンズのユニフォームでは結局打者1人にしか投げることはできなかったが、しかし百戦錬磨の経験値はライオンズの若手投手陣たちの大いなる財産となった。来年以降、松坂投手の金言を受け飛躍していく若獅子たちが増えていくのだろう。
1998年のドラフト会議の速報で、日本ハムの上田監督、横浜の権藤監督に挟まれながら、東尾監督は横浜高校松坂大輔投手との交渉権を得たカードを高々と掲げ破顔した。
松坂投手は横浜への入団を希望していたため、横浜以外で松坂投手を指名したのは西武と日本ハムだけだった。もし横浜志望を口にしていなければ、6球団以上が1位指名していたかもしれない。
その時の東尾監督の笑顔と、意中の球団に行けなくなった松坂投手の苦笑い。筆者は対照的だったこのふたりの表情もよく覚えている。
横浜ではなく、ライオンズに入って正解だったとは言わない。横浜に入っていても、日本ハムに入っていても、松坂投手ならば同じように活躍していたはずだ。
だがこれだけは言える。松坂投手が最終的にライオンズを選んだことは間違いではなかった、と。
松坂投手、23年間本当にお疲れ様でした。少しの間は家族とともにゆっくり休み、そしてまたいつか、監督・コーチとしてライオンズに戻って来てください。ファンも、ライオンズもあなたの帰りを待っています。