2020年2月15日公開
2019年を限りにユニフォームを脱いだ大石達也氏が、ニューヨークメッツに1年間のコーチ留学をすることになった。ライオンズとメッツは業務提携を結んでいるわけだが、その提携を活かしての今回のコーチ留学となる。英語を話せなかった大石達也氏がこの大役に選ばれたのはその人柄と、渡辺久信GMからの大きな期待の表れからだろう。
実際に派遣されるのはニューヨークメッツ傘下のセントルーシーメッツ(フロリダ)というA+(読み方:アドバンスA)というマイナーリーグのチームとなる。マイナーリーグは上から数えるとAAA(トリプルA)、AA(ダブルA)、A+、A(クラスA)、A-(ショートシーズンA)、R+(ルーキーアドバンス)、R(ルーキーリーグ)という順になる。大石氏が派遣されるのはAAとAの間に位置するリーグということになる。ちなみにMLB側はNPBを、メジャーリーグとAAAの間にあるレベルだと見ているようだ。
このセントルーシーメッツには過去、松井稼頭央選手、石井一久投手、入来勇作投手、五十嵐亮太投手が所属していたことがある。大石氏は1年間このチームで育成システムや育成方法を学ぶことになるようだ。プロ野球選手としては一流の仲間入りを果たすことができなかった大石投手ではあったが、しかし人生はまだ半分以上残っている。今度はフロント側の人間としてチームに貢献する立場になっていくわけだが、将来的には渡辺GMも大石氏のことは後継者の一人として考えているのではないだろうか。
さて、選手時代の大石達也投手についても触れておきたい。大石投手は2010年のドラフト会議で6球団が競合する中、当時の渡辺久信監督が当たりくじを引いてライオンズ入りしている。一部では渡辺監督が独断的に大石投手の先発転向を決めたと言われることもあるようだが、実際には違うようだ。大石投手自身にも先発投手として勝負してみたいという意思があり、それが渡辺監督の意志と合致したための先発転向だった。
先発転向は結果的に失敗したために、この判断が叩かれることも多いようだが、筆者個人としては最後まで先発で勝負すべきだったと思っている。ただ、当時のライオンズには先発投手を育たられる有能な投手コーチの存在がいなかった。もし大石投手が入団した当時、西口文也コーチや豊田清コーチという存在があったならば、結果はまた変わっていたのではないだろうか。
大石投手は何度も肩を痛めている。その原因が投球フォームのテイクバックにあったことは明らかなのだが、しかし過去の投手コーチたちはそれを指摘しなかったのだろうか。それとも指摘はしたが、大石投手にフォーム改良をする意思がなかったのか。その答えは筆者にはわからない。だがもし専門家の指導の下でフォーム改良に挑んでいれば、ここまで頻繁に肩を痛めなかったことだけは確かだろう。筆者個人としてはそればかりが悔やまれる。
大学時代は150km以上のボールを投げていた大石投手だったが、プロ入りするとその球速が140km台前半にまで落ち込んでしまった。それはやはり、大学時代に投球フォームの基礎が固められておらず、身体能力だけで投げてしまっていたことが大きな原因だったと思う。プロ入り直後の投球フォームを見ても、キネティックチェーンが上手く連動していないように見えるフォームで投げていた。と書くと「偉そうに」とも言われてしまいそうだが、筆者の職業は野球のパーソナルコーチであるため、このあたりに関しては専門分野となる。
大石投手には怪我なくもっと長く現役を続けてもらいたかった。大石投手自身はいつ解雇されても良いという覚悟はあったようだが、しかし31歳で大きな結果も残せず引退というのは、ファンとしては寂しい限りだった。だが選手としての野球人生が終わっても、これからは球団運営側としての第二の野球人生が始まる。大石氏には渡辺久信GMとの二人三脚で、ぜひともライオンズを育成上手な常勝球団へと復権させてもらいたい。このふたりならきっとそれを実現してくれるはずだし、もうすでにそれは芽吹き始めてもいる。